エンバイロメンとイシュー | どうでもいい話

エンバイロメンとイシュー

墓穴を掘る

 

自分の首をしめる

 

自らを苦境に追い込む

 

それは

 

人の定め

 

その決まりですら

 

自分で決めている

 

それが

 


 

 

 

お久し振り。今日はちょっと環境問題について考えたいと思います。

 

去年は台風が多かったですね。先週の土曜日に県南の滝を見に行ったのですが、目的地までの道のりは自然災害の惨状をよく表していました。がけ崩れで道がワヤになっている箇所が幾多とあり、非常に怖い思いをしました。今こうして生きていられるのは、前世での因業が少なかったからだな。うむ。

 

 

昨今の異常気象は地球温暖化が原因だと言われています。温暖化現象のメカニズム等についてはご周知のとおりだと思いますので割愛。

 

 

今現在、地球は温暖化に加え様々な問題を抱えています。例えば、ハロゲン化合物によるオゾン層の破壊、人口爆発、土壌水質汚染、エネルギー枯渇…etc

 

 

それらの解決すべき課題について、一つ一つ最善の対応策を考えることは簡単です。例えば温暖化を防止しようと思うなら、「今後、化石燃料、ガス、および電気をつかうべからず」と言えばいい。人口爆発を抑止しようとするなら、「食料の輸出入を禁じる」とうそぶけばいい。そうすればその土地で養える最大限の人数へと淘汰されていくでしょう。

 

 

問題なのはそれが実行できないこと。それにつきます。

 

 

なぜか? 

 

 

時の矢は戻らないから。

 

常に一方通行だから。

 

そういう感覚で人間は生きているから。

 

堕落。

 

食わず嫌い。

 

 

 

つまり、環境問題というのは本質的にエコノミカルな制約をはらんでいて、それは人間の深層心理に立脚したものであるということです。

 

 

アメリカは京都議定書の批准をしませんでした。Can‘tではなくDon’t。

 

もし、全ての人間の心から欲が消えれば、今頃みんな仕事を止めて農家に戻っているでしょう。これが最善策だと思います。しかし、欲がなければ社会は工業的、文化的に発展しませんから自家撞着ですか。

 

 

まあ、その辺りは考えないことにしましょう。めんどくさい。

 

つまり裏を返せば、「欲」があるために人は環境問題に取り組めないということです。欲があるためにポーズはできるんですけれどね。

 

 

長くなりましたが、今回僕が考えたいのは「どういう種類の欲が公益を害すか」ということです。

 

 

ここで公益としたのは、環境問題にかかわらずパブリックマナーも同じようなことだと思うからです。

 

おそらく根底にあるのは「自分さえよければいい」という気持ち。

あ、誤解しないでください。別に自分勝手な人が悪いというつもりはありません。それは生存本能としてのサガですから仕方ない。品行方正な人というのもその本能を適当にセーブできているというだけだと思います。

 

ふむ。話が脱線しました。

 

 

「自分さえよければいい」という気持ちの弱変化形が「自分一人がルールを守らなくても何も変わらないだろう」というもの。これは原理的に同じことです。多少の後ろめたさがあるかないか。

 

これをもう少し弱くすると「ルールを破ってしまった。でも仕方がなかったんだ」となります。なにかしらの理由をつけて、自責の念を軽くしようというものです。

 

これ以上弱くなると、そうそうルールは破らないでしょう。

 

 

さて、「自分さえよければいい」と思う人とあまり思わない人、なにが違うのでしょう?

 

おそらくバックグラウンドが異なるのだと思います。

 

…疲れたので、続きはまた後日。バイ。