ぽりゅーしょんが身近に感じられないことが問題である。 | どうでもいい話

ぽりゅーしょんが身近に感じられないことが問題である。

おはようございます。

最近の流行歌と暑さについていけていないy-yです。

今日は昨日の話の続きをさせていただきます。

めくるめく展開があなたを待っている! 

…なんてこともなく平凡でひとりよがりな考察を披露していますので、どうか適度に気を抜きつつ読んでください。

 

 

さて先日バックグラウンドと言いましたが、それはどのようなものでしょう?

 

僕が思うそれは、生活環境です。

 

 

環境が変われば人が変わるとはよくいったもので、まさにそのとおりだと思います。

さて、ではそもそも環境とは? 

 

 

勝手に定義させていただけるなら、僕は「外的要因」と同義とします。

 

もっとわかりやすく言うなれば「しつけ」です。

 

 

犬はしつけをしなければ自由奔放に振舞います。ところがよく訓練された犬は飼い主の言うことを忠実に聞き、ある意味人間よりも社会性にすぐれています。

 

これは「しつけ」の効果が非常に大きく効いている理想的な例でしょう。

 

 

人間も同じ。

 

犬とは違うと思いますか? 

 

あなたが親、先生、友達の意にそぐわないことをやれば、叱られたり軽蔑されたり泣かれたりしますよね。それをどう感じますか?

 

「いけないことをしてしまった」と思うでしょう。

 

 

それはまぎれもなく「しつけ」です。「よくわからないけれど、よくないことをしたのだろう」と感じさせ、「こういうことをやるとダメなんだな」と思わせること、これが原理。

 

 

そう考えると、幼児期や少年期を過ぎた青年期、中年期、はたまた老年期でさえ、人間は常に「しつけ」られているのです。

 

 

話を戻しましょう。

 

 

つまり「自分さえよければいい。こんなルールには従わない」と思う人は、その行為に対して「しつけ」られていないのです。

 

例えば、吸殻を走行中に窓から捨てる人がいますよね。その人はその行為に対して「十分な罰」をもらっていないから、別に悪いことだとも思わずにするわけです。

 

しかし、もしその人に、歩道を子供と一緒に歩いていて、車道から捨てられた吸殻が子供の頭に落ち、やけどをしたという経験があったとします。

 

はたしてそのように「しつけ」られた人はその後も吸殻を捨てるでしょうか?

 

 

 

そう考えると、環境についてあまり考えない人というのは、「環境を守らなかったために降りかかった不利益」というものを経験していないのではないか? という推論がなりたちます。

 

 

そういう人に「環境について親身に考えろ」と言っても無駄です。人間は経験したこと以外ではなかなか「しつけ」られません。

 

例えば、誰かが僕に対して「ガン患者の痛みもわかってやれよ!」と言ったとします。そのトピックに対して僕は「モルヒネを使ってもすごく痛いらしい」というペーパー上での知識しか持ち合わせていません。

 

残念ですがわかってあげられません。これが現実。おもんぱかることは出来たとしても。

 

 

だから、別に環境問題について真剣に考えない人が悪いとは思いません。それは仕方がないことだから。

 

 

しかし、なんといいますか、予測ぐらいはある程度立てられると思うんです。

 

いきあたりばったりで、失敗しては学び、失敗しては学び……。それはいい。だけれども、なるべく失敗を回避することは出来ると思うんです。

 

 

いや、実際回避できなくてもいい。

 

「失敗を回避しようと思う意識」これが大事なのだと思います。

 

 

 

「他人は自分の種の保存の障壁」とみなす本能をもちつつも「生存のための社会性」を大脳でかかえる人間。これを円滑に両立させるために「しつけ」が必要とされているのです。

 

きっと。たぶん。いや、わからないけれど。…そうっぽい気がしただけ。そんな可能性があってもいいんじゃないかな?

ん。なんだか話の趣旨がずれてきている気がするぞ。

まあいいや。

 

What a complicated world!!!!