あ | どうでもいい話

すっかりごぶさたになっていた。

あのときひっかいた傷は

すっかりかさぶたになっていた。



しょうもないジョークが言えるというのは、いい傾向にむかっている証拠だ。

いい傾向というのがどういった状態を指すのやら、あなたも私もさっぱりわからないが、そういうものだ。



これといって話すこともないので、今日は「殺人」について考えてみたい。

そんなダークなことを思いつきつつも、今日の夕飯はナニにしようと3秒おきに考えられる。

人間とは矛盾をはらんだ皮肉な生き物だ。



さて「殺人」についてだが、今日はその是非を考えたいと思う。

「明らかに非だろう!」

という声が聞こえてきそうだが、もう一度よーく考えて欲しい。



小学生や中学生のときの道徳の時間にこんな話はでなかっただろうか。


「先生、なぜ人を殺してはいけないのですか?」


その理由を快刀乱麻で答えられる先生はいただろうか?

私が教わったのは、

「人は生きなければいけないのです。だから殺してはいけないのです」

という文句だった。


そのときはペーペーの子供だったので、「なるほど納得!」と思っていたが、今よくよく考えるとなにかおかしい。そもそも答えになっていない。はぐらかしているだけだ。

なぜならば、「殺してはいけない」と「生きなければいけない」というのは同義であって、両者の成立意義は同じであるからだ。「生きなければいけない」という命題を絶対則だと思わすことで切り抜けている。しかし、それは絶対則ではない。


もし、ここでもう一段階つっこんで、


「ではなぜ生きなければならないのですか?」


と質すれば、答えられないのではないだろうか。




「生きることに意味なんてない」

とニヒルに言い切る人もいれば、

「あなたには使命がある。そのために生きているのです」

と受け止める人もいる。



当然ながらどちらが正しいかというのはわからない。

「生きる意味」など誰が証明できる?




「殺人」の是非を、「生きる意味」の是非に置き換えて裏から考察してみたが、どうやらつまづいた。

では初心に戻り、「殺人」の是非を直接的に考えたいと思う。



「殺人はいけない」という人のなかに、こういう人がいる。


「殺人を犯すと罰せられる。ということはいけないということだ」


おそらくその考えは間違えている。

なぜなら、初めて殺人がおきたときと、初めて殺人に対する罰が制定されたときというのは、明らかに前者が先であるからだ。



殺人はいけない → 罰を設ける


であって


罰がある → 殺人はいけない


ではないからだ。



ではなぜ殺人はいけないと考えられたのであろう。


……長くなりそうなので、次回。